清水屋はかつて七日町通りにあった旅館です。
建物は木造3階建てで、当時から格式の高い旅館でした。
現在の清水屋旅館跡
江戸時代の七日町通りは旅籠(旅館)が多く立ち並ぶにぎやかな通りでした。
会津若松城下の旅籠95軒のうち、実に30軒が七日町にあったといわれています。
なぜならば七日町通りは米沢街道につながっており、会津若松城下から出るにも入るにもちょうどよい場所に位置していたからです。
そのように七日町に多くの旅籠が営業していた中でも、清水屋はそれを代表する旅籠でした。
そのことを示す資料が残っています。
安政2年(1855年)に発行された「東講商人鑑」(あずまこうあきんどかがみ)には、清水屋旅館が掲載されています。
東講商人鑑は、東日本の商人が結成した集団(講)が発行した書物で、一定の基準に達した旅籠だけが東講商人鑑に掲載されるものでした。
そこに掲載されているということは、大金を動かす商人たちが安心して宿泊できる旅籠であったということが分かります。
東講商人鑑に掲載された清水屋。七日町・東講商人定宿・清水屋平助、などの文字が見える。
さらに清水屋は脇本陣としても指定されていました。
脇本陣とは、大名や関係者が宿泊する「本陣」が利用できない場合の予備的な施設として指定されていたものです。
脇本陣では大名が利用しない場合には、一般庶民も利用することができました。
多くの有名人が泊まった宿
清水屋旅館には多くの有名人が訪れています。
幕末の嘉永5年(1852年)には、吉田松陰が東北旅行の途中に宿泊しています。
この時吉田松陰は東北各藩を訪問するという大旅行を行っていますが、会津を訪問した際には清水屋に宿泊しました。
吉田松陰が記録した「東北遊日記」。吉田松陰は「微雨の中七日町を出発」している。旅行の中で会津には2度立ち寄っている。旅程は「江戸→水戸→白河→会津若松→新潟→佐渡→秋田→弘前→小泊→今別→青森→小湊→盛岡→仙台→米沢→会津若松→日光→足利→関宿→江戸」であった。
慶応4年(1868年)には、戊辰戦争宇都宮の戦いで負傷した新選組副長土方歳三が宿泊した場所でもあります。
戊辰戦争後には、松平容保の義姉照姫は東京に護送される前、妙国寺(会津若松市一箕町八幡字墓料78)から清水屋に移り、この清水屋から東京の紀州藩青山邸に向かいました。
明治には自由民権運動家であり喜多方出身の宇田成一が官憲に襲われる、清水屋事件が起きています。
清水屋旅館は、本館が栄町にあり「清水屋 環碧楼」と呼ばれていました。
七日町通りの分館清水屋旅館は、「皆山楼」と呼ばれ親しまれていました。
七日町通りに面した清水屋旅館。特徴のある建物で目立っていた様子がわかる。
なぬかまち.com デジタルアーカイブ :若松市七日町通
大正時代の七日町を大町四つ角側から見た様子。右側には白木屋漆器店の建物と蔵が見える。位置関係からすると、左側の建物は木造3階建てだった清水屋旅館だと推測できる。
大正時代の七日町を西側から見た様子。奥には東山の山並み。左側には白木屋漆器店の建物と蔵が見える。位置関係からすると、右側の建物は木造3階建てだった清水屋旅館だと推測できる。
清水屋旅館は昭和の初め頃に取り壊されました。
現在は清水屋旅館跡として、石碑と案内板が残り当時をしのぶことができます。