かつてここには「吉祥院」という大きなお寺がありました。
この吉祥院は、同じ会津若松市内に現在でも残る真言宗「自在院」(福島県会津若松市相生町2-18)の末寺として建立されました。
吉祥院は、1601年(慶長6年)に越後の僧であった弘信によって開かれ、山号は「長命山」でした。
吉祥院の本尊は地蔵菩薩で、子供の健やかな成長を願う子守地蔵尊として知られているものです。
享和3年(1803年)から文化6年(1809年)にかけて編さんされた「新編会津風土記(あいづふどき)」にも、記録が残されています。「会津風土記」は、会津藩主 保科正之の名により、寛文6年(1666年)に完成し、それを補完する情報も含まれた新編として作成されたのが「新編会津風土記」でした。
「新編会津風土記19巻 若松の5 下町」には吉祥院と地蔵堂について記載されています。
その記録によると吉祥院は東西に24間(43.6メートル)・南北に15間半(28メートル)の敷地だったことが分かります。境内の地蔵堂には、1尺7寸(約64.6cm)の地蔵像があり、 外には1尺5寸(約57cm)の地蔵があったことも記録されています。
吉祥院
境内東西に24間 南北に15間半 免除地
この町の北頬にあり 博労町自在院の末寺真言宗なり長命山と号す
越後国の僧 弘信という者 この地に来り慶長6年この寺を建て 本尊地蔵客殿に安す
地蔵堂
境内にあり地蔵像1尺7寸 又外に長1尺5寸の地蔵あり
この像もと当寺の西に堂を建てその中に安す
いつの頃にか廢して(廃れて)ここに移す
ともに古仏なり
現在では吉祥院の本堂は残っていません。しかし、吉祥院がどのようなお寺だったのかは当時の絵図や古地図からうかがい知ることができます。
例えば、町絵師であった大須賀清光が1851年以降に描いた「若松城下絵図屏風」(福島県立博物館蔵)には、七日町通り近辺に吉祥院と現在も残る地蔵尊の様子を見ることができます。
吉祥院が描かれている。現在も残る常光寺と比べるとおおよその建物の大きさが分かる。現在も残る地蔵堂もみえる。また、安政2年(1855年)に発行された「東講商人鑑」(あずまこうあきんどかがみ)にも、会津若松城下が絵地図で描かれています。
東講商人鑑は、東日本の商人が結成した集団(講)が発行した、旅に役立つ情報を集めた書物です。その中には認定された宿や主な城下の案内図ものせられています。
その中に「奥州会津郡若松城下の図」というページがあり、そこには吉祥院も記されています。
中心に鶴ヶ城が描かれ、東西に伸びる通りの様子がわかる。当時の商人はこの地図を見ながら目的地向かっていた。七日町通り付近を拡大したもの。常光寺と並び吉祥院が描かれている。七日町通りの先は米沢街道に通じており、宿場としても賑わっていた。現在も残る地蔵堂には、51.5cmと45.5cmの地蔵が2体安置されています。
これらの像は吉祥院の西にあった堂内から移されたものとも言われています。
時代が下り、1916年(大正5年)に発行された古地図「戊辰若松城下明細図」(加藤長四郎)にも吉祥院の名前が残っています。
また、そこには「言」の文字があり、真言宗であることも分かります。
戊辰若松城下明細図の吉祥院。長い時の移り変わりを見守ってきた吉祥院地蔵尊。
現代の人々がその前に立つ時、それらの人々も長い時の一部となるのです。
現在の地蔵尊敷地内には、松尾芭蕉の「鶯や柳のうしろ藪の前」という俳句が刻まれている句碑が残っています。
いつ・誰が句碑を建てたのかは不明ですが、「鶯の声があちこちから聞こえる・・柳のうしろからも藪の前からも」というのどかな風景を想像させるのではないでしょうか。
句碑は土台を除くと約60cmほどの大きさです。しかし、なんともいえない渋さと重厚感を醸し出しています。
句碑はそれほど大きくはない。亀裂が補修され、大切にされてきた様子が伝わる。松尾芭蕉の句碑はこの近辺にも幾つか見ることができます。
西福寺前(福島県会津若松市西七日町3-34)や、阿弥陀寺境内(福島県会津若松市七日町4-20)にある句碑もぜひどうぞ。
地蔵尊前の案内板もご覧ください。この場所は「七福神めぐり」スポットの一つになっています。
案内板と七福神めぐりのスタンプあり。「地蔵尊」の額が掲げられている。